自分の中の大切な存在、海を取り戻すために、帰って来るようになりました
高橋優子さん
広野町出身。東京学芸大学大学院修士課程修了(音楽学)。在学中・卒業後に世界各国を回り、現在は東京にある団体でメディア対応やアート・デザイン・建築・音楽などのプロジェクトを担当。広野町でカルチュラル・プラットフォーム「縁側の家」を運営しながら、毎週2泊3日で東京へ通う2拠点生活を行っている。
自分の中の大切な存在、海を取り戻すために、帰って来るようになりました
両親も、私も、生まれも育ちも広野町です。広野幼稚園、広野小学校、広野中学校に通っていました。いわき市の高校を卒業し、大学進学時に上京。そこからは、東京が拠点の生活でした。留学を挟んで大学院まで進み、修士課程を終え、新卒で約5年間働きました。その後、オーストリア・ドイツで仕事をしつつ2~3年間過ごし帰国。再び東京で働き始めて2年後に東日本大震災が発生し、東京へ避難して来た母と一緒に暮らしていました。そんな時にサーフィンを始め、週末ごとに広野町に帰って来るようになりました。
サーフィンを始めたのは、震災がきっかけです。実家は波打ち際から800m程度の場所にあり、生まれた時からずっと身近に波の音がありました。震災後、自分の中で海が遠く離れてしまったと感じるようになってしまい、それはちょっと嫌だなと思って、海を身近に感じられるサーフィンを始めました。今思えば、毎日聞いていた波音から離れ、身体に海のリズムが馴染んでいるような感覚が無くなって、寂しかったんだと思います。
「縁側の家」を購入したのは、2016年。現在は、広野町と東京の二拠点生活をしています。はじめは週末のみ広野町で過ごしていたのですが、現在はリモートワークを行い、週の半々それぞれで生活しています。
様々な境界が交錯する、私にとってユニークで刺激的な場所
現在は、東京にある団体の広報文化部で働いています。二拠点生活を始めたのはサーフィンがきっかけですが、広野町がとてもユニークな場所になったというのも大きな要因です。広野町は、「福島第一原発」から20km~30kmの狭間にあり、「縁側の家」は原発から約22km。避難区域になる・ならない、補償の問題など、「福島第一原発」からの距離で色々と測れるのですが、そんな境界の真っ只中にある場所が広野町なんです。
また震災後、常磐線の復旧が進められていた時に、東京発列車の最初の終着駅となったのが広野駅。東京と被災地、あっちとこっちの狭間にある場所というのが、とても興味深いなと思って。広野町は、双葉郡といわき市との境界でもありますし、復興作業の拠点となったため、町の景色も目まぐるしく変わっていき、その様子もとても刺激的でした。様々な境界が交錯する場所となり、日々変化し続ける、そんなユニークな状況を独り占めしていたらもったいないないと考えるようになり、ぜひ発信していかなければと思うようになりました。
発信しなければならないと思った理由は、もう一つあります。それは、震災にまつわる広野町の語られ方に、疑問があったからです。当時は、被災した悲惨な場所としか語られておらず、そこにとても大きな違和感がありました。私達のストーリーを、第三者からしか語られない。特に国際的なメディアにおいては、被災した地、汚染された地など、可哀想な見方でしか伝えられていませんでした。それって違うよねって。家族が近くにいて、豊かな自然があって、良い仲間がいて、割と楽しくやっていますよと。自分達のストーリーを自分達の手に取り戻す、自分の物語は自分で語る、そういう発信をしなくてはならないと思いました。今日だってとっても天気も良くって、ハッピーオーラがいっぱいじゃないですか。データや外から見ているものだけじゃ分からないよねと強く思います。
アートの力で、自分達のメッセージを届けたい
アートは強いメッセージ性があると私は思っています。なので、アートを自分達のストーリー、自分達のメッセージを広く届けるためのメディアとして活用するのは自然な流れでした。そこで、国内外からアーティストを一定期間招いて、滞在中の活動を支援する事業「アーティスト・イン・レジデンス」を行い情報発信していきたいと思ったんです。しかし、経済力も、時間もなく、スタッフもいないので、私にはちょっと無理だと感じていました。
なので「縁側の家」では、境界、共有、身体を考える、アーティスト・イン・レジデンスのairバージョン「アーティスト・イン・レジデンスインエアー(air in air)」を行っています。長期滞在前提ではなく、来れる時にちょっとだけ来るのを繰り返し、長い期間をかけて。境界の真っ只中にある「縁側の家」での体験を、来てくれた方自身の体験とミックスしてくれたら良いのではないかと考えています。特に「作品を制作してね」とか、「発表してね」ということもなくて。広野町で体験したことは必ずあなたの何かになるし、それはきっとあなたの今後に影響を与えるはずという展開をしています。
そして、それぞれが体験したことを共有していけば、境界もゆるやかに無くなっていき、輪がどんどん広がっていく。そんな空気(air)感のアーティスト・イン・レジデンスが、「アーティスト・イン・レジデンスインエアー(air in air )」です。実際に、この取り組みをライフワークと捉えてくれているアーティストの方もいて、三原聡一郎さん・小宮りさ麻吏奈さん・アバロス村野敦子さんなどの作品を常設展示しています。
二拠点生活のメリットは、コミュニティに属しているという帰属感を強く感じられることですね。帰属感があることで、とても感覚的なものですが、それがあることで安心感が生まれ、穏やかな気持でいられるんです。さらに、コミュニティに属して過ごしていると、大事なものが増えていき、日常の大切さに気づけたり、より一生懸命日々を営もうと思えたり。小さいことの重なりなのですが、それは私にとってとても大切なことなんです。
東京にいる時には仕事上、世界や社会など、大きくぼんやりとしたものの役に立ちたいと思うのですが、地元の広野町ではよりコミット感が強いというか、そばにいる大切な人や大事なコミュニティにとって良き存在でありたいと強く思います。私の場合はサーフコミュニティが特に大きな存在なので、福島県のサーフコミュニティが周囲にとってより良い存在になれれば良いなと思っています。また、私は子どもがいないのですが、次の世代の人達に向けてなにか届けられたらなとも思っていて。それも、広野町に拠点があるから感じられることなんです。
デメリットは、体力的にキツイこと。現在、東京には住まいがないので、毎回ホテルに2泊しています。時間と体力、さらに交通費などの経済的負担があるのがデメリットですね。火曜日の朝、始発で東京へ向かい、2泊3日でお仕事。木曜日の夜に戻って来て金曜日は在宅でお仕事、土曜・日曜日日はサーフィンをして過ごして、月曜日も在宅でお仕事というスケジュール感ですね。
美しい自然に囲まれた広野町ですが、特に魅力を感じるのは、一般的な観光地のように「これを見るべき」「これが素敵」的なお膳立てがされていない、素敵な場所がたくさんある所です。例えば、近くの海辺は、月が出た時には素晴らしい風景を楽しめます。ただ、海と月明かりと松の木だけで、他には何も無い。でも、それが良いんです。日々、聞こえてくる音も素敵です。国道6号線と旧道に挟まれているこの場所で、この在り方。鳥の声や木々のざわめき、自然の音が溢れていて、まるでジャングルみたいじゃないですか。
気候も温暖で、晴れている日が多いですよね。近くで自然が猛威を振るっている時も、広野町は比較的穏やかな場合が多いと感じています。住民の皆さんも、多分海沿い、浜通りの人々の気質なのでしょうが、穏やかで明るく優しいですし、何より面白いんですよ。近所の奥様方と話していても、大爆笑しちゃう。チャーミングで、とっても可愛らしいんです。
また、サーファーにとっては最高の場所ですね。広野町にいる時には、仕事の前、日の出と同時に海に入り、それから仕事をしています。週末は、ほぼ一日海に入っています。一年を通して良い波が立ちますし、サーファー人口も少ないので、すごい穴場なんです。特に岩沢は「広野火力発電所」が南風を防いでくれるので、南風が強く吹いたりすると、いわき市からもサーファーがやって来ます。
地域復興のため派遣された方で、サーフィンの魅力にハマり、ずっと赴任期間を延長して、6年以上広野町で暮らしている方もいます。そんな風に拡張し広がっていくサーフコミュニティは、私にとっても、とても誇らしい存在です。
広野町は今、小さい種が、面白いことが始まる種が、ちょっとずつ大きくなっているところなので、そのワクワクの種を育てる楽しみがあります。また「福島県立ふたば未来学園」では、クリエイティブで豊かな教育がなされているので、将来その子達が生み出す波及効果にも期待しています。
多世代交流スペース「ぷらっとあっと」さんの存在も大きいですよね。他県の大学生やインターンを受け入れており、外から来た目線で広野町の魅力を発信してくれているのを見ると、ワクワクします。インターン終了後に広野町に戻って来て就職すると言ってくれる子がいるのも、うれしい限りです。私の叔母は80代なのですが、そんな若者たちがイニシアチブを取って開催するマルシェなどのイベントへ参加するのがすごく楽しいみたいで、毎回お出かけしています。ミックスされた人々の間で色々な反応が起こり生まれる、ワクワク感、キラキラ感を感じています。
広野町にはすでに良い基盤があるのですが、より飛躍できるものすごい可能性を秘めていると思うので、これからが楽しみです。